世界NGO平和大使協議会議長
日韓トンネル推進長崎協議会会長 川口勝之
どうすれば国家大プロジェクトが成功するようになるか!
民主主義と資本主義の相性は良好だった。これまでは、利潤を分配すれば良かった。しかし意識を変えることが要求される時代となった。明治維新のような、若者がわくわくする「国家百年の大計」を創成し、それを遂行することによって自らを高め、脳の情報制御機構、「自律分散制御」に基づくインテリジェントデザイン(最適設計論)を駆使して、世界の平和と「生産と消費」のもっとも優れた「仕組み」をデザインする。これが「地球環境システム設計論」の主旨である。
恐らくこれは、エリザベス女王やローマ教皇の地球の危機宣言とも云うべき利潤至上主義や、環境破壊を招く現在の経済秩序に対する解答例となる。そしてそれは、経済を超えた宗教、芸術及び科学技術の総合化して、ある秩序化された手段になるだろう。そこには、最終的には人間の有限性に基礎を置いた「複雑適応系」のとらえ方をしなければならない。
民主主義は普遍的な政治形態といわれてきたのに、最近では「何を民主主義の根本原理と考えるか」で共通の理解がなくなってきているからである。
エマニエル・トッドも言っているように「われわれ人民」みたいな一体感や、連帯意識が最早成立しなくて、国民や市民の間にも雑多性とくに格差が表れているからである。云い換えると「社会の複雑化」がある。
それは投票で勝ったものが全部を取るような政治とは、全く違う性格のものであり、この複雑な差異の中でルールを作って秩序を維持していくことが、民主主義に求められている。
民主主義は、かつては資本主義と相性が良かったが、複雑化した社会の中で、特に腐敗を助長する「格差」が拡大する局面で、どう遷移していくのか?
感性技術からの見方をすれば、これまでの国家的大プロジェクトは、成功した例がほとんどないことから、近代の民主主義というのは、政府に良いことをやってもらうというよりも、悪いことをさせないようにすることが、基本ではないか、と思うようになった。これなら、野党も機能することが出来る。
森正稔(東大教授)によれば、20世紀の政治システムは、経済が拡大していくことを前提としていた。新自由主義は、民間の活力で資本主義が発展すると言い続けてきたが、資本主義の経済フロンティアを無限に追及していくことが可能かどうか?地球は無限大ではない。人間の寿命も有限である。その最後の経済フロンティアがマッキンダーのハートランド開拓である。
経済拡大策で、民主主義を復活させる方向性は行き詰っている。一方、民間では、努力はしても自分たちだけでは出来ないから政治の援助が欲しいという要請はいっぱいある。こういうところから、一つ、ひとつ何をやらなければならないかを解決していくという、インテリジェント・デザイン(最適設計)で、複雑適応系に対応すべきである。驚くべきことに、大学の研究開発者自身がこの問題に取り組み、解決に成功した諸例を「ものの見方」について、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲで提示されている。
民主主義では解決できない問題があるという自覚すべきだ。原発と民主主義の両立は難しい。原発がないと人間がそもそも生きていけないのであれば、原発が民主主義に優越するという考え方も成立するが、そこまで実際にリスクをかけて原発を擁護するのは、誰にも困難である。
原発を推進するのに、誰の賛成が必要かと言うと、範囲を限定することは難しい。地元が賛成すればよいというわけでもなく、事故が起きれば立地自治体以外にも被害が及び、害は国境を超えることもある。
民主主義が必要とする情報の公開や、テロに対しても脆弱という問題が原発にはある。つまり、自分たちが決めたことを、自分たちで実行するという民主主義の思想が限界に来ている。エネルギー問題(原発問題)の解決には、新しいエネルギーの研究開発と既存の分散形エネルギーの組み合わせ、インテリジェントデザイン化(最適設計)で可能となる。その為には、地球社会を自律分散形のエネルギー社会にすることが肝要である。これを民主主義で合意形成が出来るかどうか。
地球社会は、いろんなものから複雑に構成されていて、どれかを壊すと全体が変になる。そういう壊れやすい世界だから一つ、ひとつ日本流の「もののあわれ」の思想で手当てしていくことが必要なのである。その典型的な例が「子供とその貧困」である。
エマニエル・トッドは、乳幼児・子供の死亡率から、人口統計学的に解析を行い、地政学的、人間学的な考察を加味して、ソ連邦の崩壊を予測した。
渡辺京二(逝きし世の面影、平凡社)の日本を観察する目は鋭(するど)い。
幕末から明治にかけて来日した外国人は、朝から晩までわいわい騒ぎながら路上を走り廻っている日本の子供たちに驚いたらしい。その幸せそうな表情、あらゆる街路の真っ只中で、はしゃぎ廻るのだ。交通など少しも構わずに遊びに没頭する。むしろ、大人達が、子供の遊びを邪魔しないように気を使っていた。
子供の遊び声が町中に響き渡っていた「いい時代」だったのである。それからの日本の躍進ぶりは、まさにエマニエル・トッドの予測の逆説を肯定させる説得力がある。死亡率ではなく「出生率と訓養」が重要なのだと言っているのである。
これから先は“余禄”の表現になるが、それから百数十年、街中で上る子供らのはしゃぎ声には、「うるさい」という住民からの苦情が寄せられる世代となった。東京都の調査では、保育園や公園で遊ぶ子供の声に苦情のあった区、市町村が7割にも昇ったという。この状況で、政府には、景気、経済成長ばかりを要求する。経済成長とは、「或る秩序」であり、他者との「同期性」から生まれてくるものである。ラフカディオ・ハーンや、昔の外国人が、指摘したような「他者との同期性」のある、寛容性のある、日本人に戻ろう。でなければ、経済成長なんか覚束(おぼつか)ないことを知るべきである。私など本稿を書いている時など、前の公園からよく聞こえてくる子供達の“集合音”は、何か“佛のマントラ”のように響くのだが・・・・。
この問題のもっともよい解決策は、高齢者に環境に優しい仕事(知的労働、農業、遊び、スポーツなど)制度設計してやることが肝要である。それが介護医療費の低減にもつながる。
国家百年の計には、若者の共有する「純粋性」と「生命力」が必要である。これがないと何をやっても「駄目」になり、「ベルリンの壁の崩壊」のような、集団的同期性を先導することはできない。そして高齢者は、その「体験的学習」によって蓄積された「知と直観」を提供して若者と「協業」していくことである。
人間というものは、図5.1に示されるように、体験的学習によって「意識の改善」が出来る「もの」なのである。本当の新事態に遭遇したとき、従来通りやその延長の考え方で、急いで納得したふりをして実は逃げている。眼前の歴史の新しさを正しく掴めないようでは、未来の歴史を創ることはできない。
老人は自己の「体験的学習」の成果や失敗経験を、若者は、その旺盛な「生命力」や「行動力」で老人の世話をする。この相互学習の「塾」みたいな「集合知」の生き方は出来ないか?
例えば、後章で述べる「オープンサイエンス」というネット空間で、老人と子供が自分らのスキル(技術)を教えたり、教えられたりして、ネット集合知が有効性を発揮するための大切な要件を検討する。ネット集合知の最も興味深い応用は、少なくとも表面上、客観的な評価基準など存在しない分野に関するもので、レストランの良し悪しとか、映画や音楽の新潮流など、秩序ある自由討論から生まれる。
図5.1意識の再編―宗教・科学・芸術の統一原理からみた階層構造
(渡辺 1992 一部改造引用)
「人間の内面的な感性の表現の研究」より